2008年9月26日金曜日

文化。

みなさん、こぬばんわ

ベイビー ふぇいす です

おーいえ(´∀`)<ナンデモアリカー オラー


ずいぶんと、ヒサシブリねー
ダレも見ないならソレもよしー
私は元気に狩りに出ておるぞよー

HRもとっくに、灰色ならぬ薄紫になり
おざなりになった、ブログをふと思い出したヨー

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さて、
MHFはオンラインゲームである
従って、求人区とか自由区とか
いろいろ人と接っしながらやるゲームであるな?
コレってイロイロとストレスをためたり
なんとも歯に肉のスジなんかが詰まって
気持ち悪いっていう感覚に襲われることも
多々あるのではないだろうか?

普段から、おっちゃらけーな私だがぁ
たまには、小難しいことを書いてみたりする。



まず、日本人というものはヤッカイだ。
私から言わせてもらうならば、もはや
異文化コミュニケーション並に難解である。
デジタルに慣れた諸君にわかりやすく言えば
社会的スクリプトが根本的に違うのである。

われわれが受けた教育、ここで扱われていた
「文化」がある。
それは、一般的にいわゆる「顕在文化」と
いわれ、文化的行事として形式化されたものを指す。

しかし、このような「文化」は、いわば「高尚な文化」で
あり、学問として勉強するためには必要不可欠なものでは
あるのだろうが、我々が日常生活のなかで人と接しえる
時に感じる文化とは必ずしも同じとは言えない。

「高尚な文化」は、確かに我々の生き方の基本的要素として
価値観を形成するものなのかも知れないが、それを使って
基となるプライバシーの問題を説明することは非常に困難である。
なぜ、女性の年齢を聞いてはいけないのか?とか
現代では、単に女性の年齢だけではなく、
結婚しているのか?子供の有無は?など
ある意味タブー視されているし、こういうことは日本の教育現場に
於いても 教師が生徒にすら聞くことが難しくなっている。
なぜなら、片親の子供の数が非常に増加しているからである。
しかし何故か?ということを考える人は少ない。
「それは非常識なことだからだ」
というだけではない、ナイーヴな問題について逃避している人が
多いわけだが、これをキチンと説明できる人は少ない。
あなたがたが子を持つ親であれば、どのようにしてこの事実を
教えてゆき、真の文化人とするかに大変興味がある。

ところが、「高尚な文化」は、正にそのような個人差や
時代差を越えて得られた、抽象的で包括的な価値観なのである。
したがって、文学や思想を通してそのような文化的価値観を
学ぶということは、日常生活から切り離された「学問」として
ならいざ知らず、現実的なオーラル・コミュニケーションの際に
見られる様々な事情を取り扱う場合、一向に役に立たないことが
大半を占めるのではないだろうか?

これにより、我々はその「高尚な文化」を基準として
他人とのコミュニケーションを図ろうとすることが
えてして間違いであるということを知らねばならない。

ところが近年、若者達の間にあるそういったオーラル・コミュニケーション
を円滑に行えず「高尚な文化」のみを基礎にして、その思想や理念の
解釈を自己のエゴにより屈折させ、それから逸脱するものとの関係を
排除しようとする傾向が強い。

これは学問としての文化を丸呑みしてしまい、己の実経験というもの
すなわち、人の痛みや悲しみ、喜びや幸せについて、多角的に
考察するということが出来ないことに他ならない。

智識が豊富であっても、経験が少ない者は
図書館にある、誰も手をつけない蔵書と同じである。

経験が豊富ではあるが、無知な者は
壊れるまで動き続ける、産業機械のようなものである。


いろんなことを知っていても、それを活かせるための
経験を積み、真に博識となるには時間が必要だし
大変多くの時間をかけて、いろんなことを体験してみても
なぜか?ということを理解できる智識がなければ
いつまでたっても、同じことを繰り返す羽目になる。

思考を停止し、それとなく聞こえの良いものに陶酔し
従うことは、自由の身でありながら不自由な生き方である
と心してほしいものだ。

少々脱線気味になったが、
我々が不快に感じる、対人関係における諸問題について
解決の糸口は自身の中にある、謝った認識と思いやりの
欠如であるということを今一度見直すべきである。
当たり前すぎることを今更言ってはいるものの、本来
気を使う・・・という単純な行為は、度が過ぎればそれもまた
他人への不快感に繋がる。

何がいけないのか?何が不快であったのか?
何故そう言ったのか?言われたのか?
そこが問題であって、
行動を起こしたものが悪い、という簡易すぎる結論は
経験したが、答えを得たことにはなりえないのだ。


こういった教育という根本が捻じ曲がっている
世の中にあっても、我々は真に思考する能力を持っている。
今、我々が思い描いている幸福や常識というものは
すでに間違っているかも知れない、という意識を持って欲しい。
そうすれば、人との関係において、それが初対面であろうが
既知の存在であろうが、見事なまでに理解のほどを示す
ことが可能になるだろう。


ゲームという一つの文化、ここでも凝り固まった
思考しかもてない若者が多い。
我々はもっと自由で、もっと快活に生きて然るべきである
と、私は声を大にして言いたかったのだ・・・。



いじょ。